日本のお弔いはこんなふうに変わってきた
日本の歴史からみたお弔いの儀式
日本のお弔いの歴史は、縄文時代から今日に至るまで、多様な葬送文化と儀式が展開されてきました。ここでは、時代ごとの主要なお弔いの方法とその文化的意義を概観します。
縄文時代・弥生時代のお弔い
縄文時代には、集落の中心部に特定の墓地が作られ、素掘りの穴への埋葬が行われるようになりました。この時代から壷や鉢などの副葬品が使用され始め、故人への思いやりや死後の世界への想像が表れています。縄文時代後期には、埋葬後に一度、なきがらを掘り起こし、再び埋葬する複雑な儀式が行われました。弥生時代には、儀式用の土器が使われ、これらがしばしば穴を開けられたり破壊されたりしていたことから、何らかの精神的、宗教的意味があったと推測されます。
奈良時代・飛鳥時代のお弔い
奈良時代には、「殯(もがり)」と呼ばれる儀式が行われ、高位の人々は亡くなった後、しばらく仮の建物に安置されました。この期間中に様々な儀式が執り行われ、それは1年から3年、場合によってはそれ以上続きました。この時代には大規模な古墳が作られ、死後の世界に対する見解が具体的な形を取り始めました。
最初の火葬
日本における火葬の始まりは、700年に法相宗の僧、道昭が遺言により飛鳥の栗原で行われたとされています。これが日本の火葬の起源とされ、その後、火葬は日本の葬儀文化の一部として徐々に受け入れられていきました。火葬の後に道昭の遺骨を分配しようとして争いが起きたが、不思議なことにつむじ風が起こって遺骨と灰を吹き飛ばしてしまった、という伝説があります。
平安京の風葬
平安時代には、一般の人びとは亡くなった方を河原や道や空き地に放置されることがあり、これは風葬の一形態でした。供物が添えられる場合も多く、お弔いの儀式があったのだと思われます。「今昔物語」には荒れ果てた羅城門の楼上になきがらが放置されていたという話もみられます。この時代には、民間の宗教者「聖(ひじり)」が死体の供養を行っていたとされ、社会の中での死とその後の扱いに対する様々な態度が見て取れます。
鎌倉時代のお弔い
お弔いでの湯灌や納棺、火葬、骨上げなどは僧が役目を果たすことになってきました。貴族のお弔いを任せられていた宗派、武士のお弔いを任せられていた宗派、豪農のお弔いを執り行った宗派など特徴があります。お葬式は昼間に行われることが増え、一連の儀式も定まり、有名人の葬儀には何万人もの人が見物に押し寄せたことあったようです。寺の墓地に入ってお経をあげてもらいたい人が増え、寺は墓地を境内に作り始めました。また、多くの人がお経に救われたい、極楽に行きたいと願いと仏教を求め、たくさんの寺院が開設されました。 一方で、浄土真宗の宗祖、親鸞は自分が死んだら「鴨川に流して魚に与えなさい」と言い残しています。
江戸時代のお弔い
中上流町民の葬送が派手に華やかになってきます。金銀で飾られた葬具で火葬場や墓地まで列を組み町を練り歩きました(葬列は、亡くなった人が旅立っていくという意味付けで、とても大切に考えられていました)。お葬式の内容や規模を5段階のプランに分けた資料も残っているそうです。かなり現代のかたちに近いものになってきました。一般市民のお葬式はどうだったのでしょう?やはりレンタルで、それなりに飾り付けられたお葬式を執り行おうとしていたようです。この需要にこたえる形で18世紀ごろ葬具貸出し業者が登場します。
明治・大正時代のお弔い
この時代に、 神道でのお葬式やキリスト教でのお葬式もできるようになりました 。当時の東京の火葬場は日暮里、三河島、桐ケ谷、亀戸、砂村、代々幡、落合にありましたが、大正に入ると、葬儀馬車や霊柩車が利用されるようになり、葬列を組んで長い距離を歩くということは減っていきます。 弔意の示し方としては、花筒、放鳥篭、造花などがあり、通常15対ほどでした。
弁当や菓子折りも不足することが恥ずかしいとされ、かなり多めに用意されたそうです。
また、「お弔いかせぎ」と呼ばれる引き物をあてにする行為が行われ、それを専門に買い取る業者もあったそうです。
ある日の東京での明治のお葬式
街は西洋文化の影響を受けつつ、まだ古き良き日本の風習が息づいていました。その中でもお葬式は地域社会に深く根ざしていました。
ある夜、ひとりの男が息を引き取ります。息子娘や亡くなった男の兄弟たちは、自宅で最期の瞬間を看取りました。
親族の手によって男の体はむしろの上に北枕で安置され、裾を首元に、襟を足元に上下逆さまにした着物がそっとかけられました。
側には逆さ屏風(上下を逆にした屏風)が立てられ、枕元には一本樒、焙烙の火に線香が立てられ、胸に守り刀を置き、家族は手を合わせました。
ふたりの親族が、「はやづかい」として近所に訃報を伝え歩きます。
「はやづかい」が訪れるまでは、どんなに親しい間柄でもその家を訪れることは控えたものでした。
向う三軒両隣と遺族が集まり、お葬式について相談します。「はやづかい」のふたりは寺や役所、葬儀屋にも足を運びます。
喪主を務める息子は裸に縄のたすきをして、亡くなった父に逆さ水(水にお湯を差すもの)で湯灌(ゆかん)をします。
娘やいとこたちは玉止めをせずに経帷子を縫い、納棺の準備を進めました。
納棺が終わると、より遠い親戚や知人にもお知らせに回りました。電話が普及しつつはありましたが、まだ直接訪ねるのが礼儀とされていました。
お通夜は菩提寺の導師が来てくれました。全通夜・丸通夜と呼ばれる夜通しのものでした。
鳴物入りで、お勤めの合間に酒や料理をとりながら、朝まで行います。その賑わいは、近所の人々が眠れないほどです。
翌朝、導師は仮眠を取りにお寺へ戻り、遺族たちは朝湯に入り、昼の出棺を待ちます。
出棺の前に「お迎え僧」が菩提寺からやってきてお読経してくれました。
出棺の前には、一膳飯を一本箸で食べる「デバのメシ」という儀式を執り行います。
棺は輿(こし)と呼ばれるものに入れられます。
葬列は昼頃に出発し、高張提灯、生花、造花、放鳥、お迎え僧、香炉持ち、位牌持ち、輿の順番で歩いて菩提寺に向かいます。
地域の人々も葬列に加わります。お葬式が終わったあとには羊羹などの菓子折りを配り、町屋、桐ケ谷などの火葬場に向かいます。
火葬は夜に行われました。火力が弱いため翌日までかかるのです。
翌日、親族がまた訪れ収骨し、火葬場から戻った後に火の入っていない提灯を持って挨拶のために町内を回ります。
全てが終わると、集まった人々は会食でもういない人を偲びました。
明治の頃の東京でのお葬式は、地域社会全体が関わる大掛かりなもので、亡くなった方への最後の敬意として、多くの儀式と伝統が重んじられていたのです。
現代へ
時代が進むにつれて、個人や家族のニーズに合わせて適応されるようになり、お葬式のやり方は次第に変わってきています。
昔は大家族が多かったけれども、現代では、核家族化や都市化の進展により、お葬式は以前に比べて小さく、かつ個人化が進んでいます。
また、お葬式のスタイルも大きく変化しています。
病院などで命を閉じることが多くなり、安置先も自宅以外を選択される方が増えました。また、お葬式も自宅で行うことが少なくなり、葬儀会館などを利用するケースが多くなっています。
昔と比べると、お亡くなりになった方と共有する時間が短くなってきています。それと共に、亡くなった方との心の距離も少し離れてきてしまっている感じがします。
- 参考文献
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勝田 至. (2012). 日本葬制史: 吉川弘文館.